先日、購読している地元紙の「読者の声」に中学生の方から、「広辞苑に『うざい』を載せないで」という投稿文が掲載されていた。
たやすく人を傷つける『うざい』という言葉を自分も安易に使ってきた経験を語り、広辞苑に載せる事に抵抗を感じるという内容の記事だったけど、中学生の方が自分の云いたい事を文章として伝えようと苦心された生の文体が久々新鮮だった。
市民記者の書いた記事をメインとするとされる市民ジャーナリズムに投稿している身としては、既存マスメディアが欠かさずに掲載し続けている「読者の声」の原文主義はやはり羨ましく思えてくる。
また、コメント重視のような市民ジャーナリズムのまんねりもいささか飽きてきており、討論が必要な物と情報として残す物の区分けも必要なのじゃないだろうか?
「情報が確保されていれば、利用者がその真偽を確かめる手段となりうる」とされるアクセシビリティ(利用可能)の理論にも合致するだろうし、情報に対する補足資料を提示する手段としてのリンクの活用などで、その情報を深めていく双方向性が残念ながら、日本にはなかなか根付きにくい。
少しは知識がある映画の話で説明していけば、例えばアメリカの映画データベースThe Internet Movie Database (IMDb)と日本でよく知られているとされるallcinemaを比べるとよく判るのだけど、データベースとして、資料価値を高めようとするIMDbとそれぞれの感想で埋めようとするallcinemaの違いがはっきり判ると思う。
生の文体を一律の文体にしてしまい、書き手の味を殺してしまう編集法と掲載された記事に対する小姑的なコメントはやはり利用者にとっては余計なお世話であるだろう。
DVDの画質などの復刻状況が知りたいのに、それぞれの感想を書きたがる大きなお世話。
それは人が何を求めているかへの関心なのだろうし、何を伝えたいかという事なのだろう。
日本人がデータベースに弱いとずっと云われ続けているけれど、おそらくそれはコミニティに対する誤解であるだろうし、民主主義に対する無理解なのだろう。
「読者の声」の大切さ、それは「不虞は福」として、人が困っている事を知ろうとし続けた日本の美学でもあるのじゃないだろうか?
- OhmyNews : 「読者の声」の大切さ
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