小学一年の時の担任の先生の奥さんからご主人が亡くなられた事を知らせる寒中見舞いを頂いた。
生まれつき、手が不自由で就学の時、養護学校への入学を薦められていた僕に対し、まだそれぞれの学校の自主判断で、引き受ける、引き受けないを決める事が出来た1964年当時、実母は僕を隣近所の子供たちが通う小学校に入学させるべく、市の教育委員会やら、近所の小学校やらに「お願い」しに足繁く通ったと聴く。
その時、担任を引き受けて下さったのが、このたび亡くなられた先生だった。
寒中見舞いに書かれてある享年から数えると当時40代のベテラン教員だったろうその方は大正生まれの「共生理論」がおありだったのだろう、クラスの同級生と同じく僕と接して下さった。
当時、クラスは一クラス45人の大所帯、その先生はまんべんなく子供らを見守り、僕に対しても特別扱いすることなく、誰だって出来ない事があるのだから、共に生きる教育をされた。
その先生も翌年、わずか一年のお付き合いで転勤され、その送別会の時、僕に『保険の図鑑』という本を下さり、学校を去られた。
『保険の図鑑』には人の体の中、細胞同士が手を合わせ、身体の健康を保っている話が擬人化され、描かれており、本を下さった先生も多分、「君の体の中でも助け合って、健康を保っているんだよ」とでも教えたかったのかなと、40数年経った今も大切に持っている。
その後、その意志を受け継ぐ先生達のクラスに引き受けられ、僕は普通学校を卒業した。
教育現場ではその後、1977年の身体の不自由な子は一律に養護学校へという文部省の「養護学校義務化」で、不自由な子供と一緒に育つ教育は失われ、記録映画の『養護学校はあかんねん!』なども作られもし、弱小ながら、僕も札幌で上映会を企画した。
今は少子化で養護学校も普通学校に統合されようとしているとも聴き、子供たちのためではなく、社会のために決める権利を奪われ、振り分けられる子供たちが今もいるとも聴く。
これは不自由な子供たちの問題でもあるし、その子等とどう付き合っていいか判らない健康な子供たちの問題でもある。
記録映画の『養護学校はあかんねん!』で語られる以下の発言は大人の都合で奪われた子供たちの当たり前の姿を望む声であり、そういう助け合いの中で育った体験を持てた幸福は亡くなられた先生のご尽力と感謝していると共に、亡くなられた事にもの凄い寂しさを感じている。
「むずかしい勉強をさ、頭こねくりまわして、悩みながらさ-『これ、わかんねえ、教えてくれ』とかさー、『こんどの日曜に、どっか行こう』とか、そんなこと云いあってだよ、断わられてもさ、『じゃ、次の日曜は』とか-そんなこと云いあって、ちっちゃなことからさ、さ、人間関係つくってさ。もっと自分らがストレートに、自分らが素直にさ、云いたいことを云えた方がいい。-すごく自然な人間関係ができるんじゃない?」
40数年前、日本にはこんな関係を持てる小学校がありました。
- OhmyNews : 恩師の訃報から思い出す「共生」の教え
- 長征社記録映画「養護学校はあかんねん!」
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