2008-01-31

男の花道 Man's flower road

1908年の2月にその後、映画界に多大な影響を与えた映画監督のマキノ雅弘(2月29日)と映画俳優の長谷川一夫(2月27日)が生まれたそうで、今年は生誕100年にあたり、時代劇専門チャンネルにて、そのお二方がコンビを組まれた時代劇5作品を放映するという。

長いキャリアを持つお二方が共演されたのは戦争間もない時期に撮られたわずか7本の作品と戦後間もない2作品であり、今回、放映される『昨日消えた男』(1941年)、『家光と彦左』(1941年)、『阿波の踊子』(1941年)、『男の花道』(1941年)、『待って居た男』(1942年)の他に、『婦系圖 前後編』(1942年)、『幽霊暁に死す』(1948年)、『傷だらけの男』(1950年)である。

マキノ監督は日本映画の父とも呼ばれたマキノ省三の息子として、弱冠18歳にして監督デビューし、父が作った莫大な負債を背負いながら、数日で一本の映画を撮り上げるほどの早撮り監督として、ギネスに載るほどの映画を作り続けた方である。

世相が重苦しくなる戦前にも、父から譲り受けた「映画はおもろないとあかんでえ」の持論から現実にはあり得なさそうな庶民の仲間意識の高揚を描くのを得意とし、阪東妻三郎の『決闘高田の馬場』では恩義ある伯父の果たし試合に助っ人で駆けつける堀江安兵衛をはやし立てる長屋の住人を、怪作オペレッタ時代劇として、DVD化もされている『鴛鴦(おしどり)歌合戦』で、みんなが歌い踊る脳天気ぶりにも人情味があふれていた。

一方の長谷川一夫はその美貌で圧倒的な人気を博していたけれど、1937年に松竹から東宝に移籍する際に暴漢に左頬を切りつけられ、心機一転という時にマキノ監督とのコンビが実現したようである。

時は戦時下、ふたりがコンビを組まれた作品は敵国アメリカの推理作家、ダシール・ハメットの「影なき男」を遠山金四郎を主役に描いた推理劇である『昨日消えた男』とその続編の『待って居た男』、コメディタッチの『家光と彦左』、長谷川一夫が女形を演じ、一命を救ってくれた医者への恩義返しをする『男の花道』と、御上を怒らせるに事欠かない作品ばかり作り続けた。

マキノ雅広自伝・映画渡世地の巻』(1621-23頁 : 1995年、ちくま文庫、筑摩書房)の「第三章・戦時下の映画渡世」にその辺の話が詳しく書かれているそうで、『ハナ子さん』(1943年)のラスト・シーンですすきを出したら、「すすきは枯れすすきに通じる」と「敗戦思想」の烙印を捺されちゃったとイチャモンをつけられ、『婦系圖』(1941年)の前編では両国の花火が不発に終わったから「国賊映画」、後編で火薬が爆発したから「国策映画」という行司判決が下されたそうで、当時の映画検閲の無茶苦茶ぶりがうかがえもする。

飽くなき抵抗をし続け、銀幕の夢を送り続けたお二方のコンビも戦況が厳しくなると解消されたようで、戦争末期にはマキノ監督も満州に赴き、戦争協力として『野戦軍楽隊』(1944年)なる映画を撮っている。「戦時下における、映画屋としての良心。」という擁護派のコメントをネットで見たけれども、ビデオで見ると、中国の人々に軍楽隊として、日本の歌を教え、親睦を深めたという、文化侵略の話であり、マキノ雅弘の「映画はおもろないとあかんでえ」の持論が、戦意高揚にうまく利用された映画に思えもした。

敗戦後、マキノ監督は多くの映画監督と同様にスランプに陥り、ヒロポン中毒にも陥ったという。

1985年の「ぴあ・フィルム・フェスティバル」で回顧展として上映されただけで、ビデオ化もされていない『幽霊暁に死す』(1948年)はヒロポンの打ち過ぎで身体をこわしていたマキノが、長谷川一夫と再び組んだコメディだそうで、敗戦の頃、どんな「銀幕の夢」を見せたのか、これを機に是非見てみたいところ。

『家光と彦左』、『男の花道』で脇を務める古川緑波の当時36歳にして落ち着き払い、主役を殺すことなく光る名演も見物であり、映画の黄金時代の基礎を築きあげながら、戦争という時代に呑み込まれていった男たちの花道を生誕100年を機に知るのも悪くはないと思います。

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