イーストウッドの映画は云いたい事がストレートすぎて、見終わった後、「異議なし」で終わってしまいそうな、そんな危うさをいつも感じてしまう。
新作「グラン・トリノ」もそう。現代社会の多文化コミニケーションが日常化する状況を背景に、信じる者、信じられない者、闘う事、守る事、生きる事、死ぬ事、そんなものが順々に定義されていく。
一昔前なら、「許されざる者」とかそれを西部劇の形を借りて描かれていた物が、今は現代の話としてごく普通に通用する。戦争を繰り返し、労働力を戦火で失っていったアメリカという国はそんな混沌とした多文化コミニケーションが鮮明な国でもあるのだろう。
見方を変えれば、昔の西部劇やイーストウッドが演じた「ダーティ・ハリー」シリーズなんかは多文化コミニケーションが浸透する社会で、自分たちのアイデンティティを守ろうとするものだったのが、「グラン・トリノ」では年老いた老人のアイデンティティ、移民として移り住んだアジア系の家族のアイデンティティと、社会から見落とされていく人々の生き方の肯定が描かれいるように思えた。
老人のアイデンティティとして、シンボライズされる70年代に作られたグラン・トリノはアジア系の家族の男の子に引き継がれる。
グローバル化する現代に見失われる個々人のアイデンティティ、それをどう守るのかというところで、この映画は「宗教」が描かれる。
イーストウッドの映画って、いつもそんな展開だったような気もするし、だから、最終的なところで、よく判らないになるような気もする。
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