こどもの日の事、お子様無料のサービスで子供たちが沢山いる場面を避けるため、無駄かなと思いつつ、少し時間を遅くして、夜の9時頃にスーパー銭湯に入りに行くと、案の定、小さな子供を連れた大人たちが子供を銭湯で遊ばせていた。
これから風呂から上がり、身支度して、家に帰ったとしても、寝床につくのは下手すれば夜中の日付が変わる時間になるだろうし、遊ばせ放題の子供たちのはしゃぐ気持ちが落ち着かなければ、更に子供たちが寝る時間は遅くなるだろうにと、人ごとながら、いつもように思ってしまう。
重松清の「きよしこ」に、ピーターパンは子供じゃないのに、大人になれない子供の代名詞にさせられているというような記述があったけれども、時間を忘れて、子供たちとスーパー銭湯で過ごす大人たちこそ、大人になれない子供なのじゃないだろうか?
子供から大人になろうとする時期の平成生まれの大学生たちと同じ職場で接してると、こんなに大学生って、子供じみていたかなと思う事がままあるけれども、大人になれない子供たちが育てた子供はもの凄くもろい部分を持っているのかもしれない。
職場の管理職を任された人たちも大人になれない子供のように指揮系統の云われるままに動く小さな兵隊のようにも思え、相対する人間の個性などまるっきり無関心にならざるおえなく、みんな自分の殻にひきこもる自閉のようにも思えてくる。
手を取り合って、手をつなぐ子供たちに夢を教えたピーターパンがいなくなった時、それが正しいピーターパンシンドロームなのだろうか?
日本の知的障害の教育の元となったといわれる話を映画化したものに、戦前の「手をつなぐ子等」、戦後の「忘れられた子等」というのがあるけれども、今の時代はどんな子等の時代なのだろう。
知り合いのブログでも「人の向き不向き」を今さらながらに驚いたり、「便利さ」と誰でも使える事の優しさの違いに戸惑っていたりしており、なんかこれもピーターパンシンドロームのように思えてくる。
子供のまま、浮き世を終わりたいと願った映画「男と女」のピエール・バリューはもう子供じゃないんだと判っていたから、そう思ったんだろうけれども。
みんなが幸せになりたいと思っている。
私は笑うのが好きだし、他の人が楽しんでいるのをじゃまする気はない。
けれど悲しみのないサンバなんて酔えない酒と同じ、
私の好きなサンバじゃない。
歌が嫌いな人もいれば、流行だから聞くだけの人もいる。
金儲けの為に歌を利用する人もいる。
私は歌が好きだ。
だから世界を駆けめぐりその根っこを探しあてるんだ。
そうして今ここにやっとたどりついた。
サンバこそは最も深い歌だ。
これこそ歌だ。
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