「青い鳥」から読み始めて、「きよしこ」「愛妻日記」、デビュー作の「ビフォア・ラン」、直木賞作品の「ビタミンF」、坪田穣治文学賞の「ナイフ」と読み終えて、数の力の団塊の世代の後、しらけ世代と呼ばれたうちらの世代の更に下、バブル景気で踊られされ、今、40代半ばになろうとする重松清の社会観が反映された作品群に「とまどい世代」とでも呼べばいいのだろうか、そんな物を感じる。
団塊の世代のように数の力で社会制度を作り上げたわけでもなく、うちらのように団塊の世代からしらけ世代と皮肉られたわけでもなく、バブル景気で「金の卵」のようにもてはやされながらも、受験競争の末の学歴社会の洗礼を受け、バブルが終わると共に、バブル処理を背おらされたような、そのくせ、バブルの夢から抜けきらない、そんな世代が、続く団塊ジュニアのバブルを知らない受験競争のみの社会の厳しさを教えられたモラトリアム世代を部下や我が子の担任教師として、なんかおかしいと思い、わが子たちは過酷ないじめという生存競争の中にいて、手をさしのべるすべもない。そんなやっかいな社会のポジションで「おじさん、おばさん」としてどう生きようかと迷っている、そんな作品群が何となく共感持てる。
重松清の読んだ作品の中には主人公たちより年上の世代で出てくるといえば、年老いた父母たちくらいで、一回り上のうちらしらけ世代はあまり出てこない。
社会をひたすら背負うとしているようなそんなおじさん、おばさんは自分であるようにも思えるし、どっかで逃避しがちでいつまでもしらけ世代であるような自分への社会感の問題提起にも感じたりする。
けれども、重松清のこだわる「いじめ社会」が築かれつつあったうちらの子供時代はやはりその頃、お兄ちゃん、お姉ちゃんだった団塊の世代が働く場を確保して、ブランド化させたのが、受験競争、学歴社会、そして、いじめ社会に向かう根源のように思えてくる。
社会の牽引役から降りようとしない団塊の世代の大量定年の引き延ばしの後、日々忙殺されるとまどい世代は更なる過酷な環境を迎えるのかも知れない。
問題は今にあるんじゃなくて、未来にあるのに、しらけ世代である僕などはそんな取り越し苦労をするけど、如何に巻き込まれないように生きようかとやはり逃げばかり考えるのだけれども。
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