2009-05-24

長距離ランナーの孤独 The Loneliness of the Long Distance Runner

1960年代の怒れる若者たちを描いた映画がDVD未復刻という壊滅的な状況下にある情報隔離の日本、思い起こされるのは名ランナーを生み出す事が学校の誇りであるそんな環境で走り続ける長距離ランナーの孤独を描いたアラン・シリトー原作の映画化作品「長距離ランナーの孤独」

期待を一身に背負い、ゴール間近で走るのを辞めるランナーの孤独はその後に待ち受けるまわりのバッシングの恐怖を呼び起こす。だから、人は走り辞める事が出来なく、目の前にぶら下がった銭を追い求め、ある者は近道を、ある者は苦しむ事なく走る事を考える。

この春も親睦会役員として、職場の親睦を名目としたレクリエーションとして企画したボーリング大会を今夜に控え、それが終わるとアメとムチのムチにあたる賃金回答を聴くために本社人事のお歴々の来る日に職場に出向かなきゃならない。

ここで仮に「長距離ランナーの孤独」のようにボーリング大会を、賃金回答をサボタージュしたら、どうなるだろうか。人のためによかれと動き回るうちに、それが当たり前となり、いつしか役目となって、義務を強いられる。そんな社会の息苦しさを感じるのは、不景気、合理化の時代だからだろう。

僕には走り辞める勇気なんか持てない。ぶつぶつこうやって文句を云うだけ。

人気絶頂期の岡林信康は「長距離ランナーの孤独」を実行し、無責任、身勝手とののしられた聴く。その時を振り返り、岡林信康は自分が持て囃されて空っぽになる怖さと孤独になりたくなくて無理して舞台に立つ恐怖の板挟みに、「引きこもり」だったと自分を語る。

来週末はその岡林信康のコンサート。それを目の前にぶら下げて、今週は走るっきゃない。走り辞めたら、がらくたと呼ばれる世界で。

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