2010-10-02

改正版JISの達成基準と実装方法 Attainment criterion and packaging method of revision version JIS

お江戸の真ん中、新宿で、11月8日(月曜)の昼日中に、「改正版JISの達成基準と実装方法」と題する副題、Webアクセシビリティの新規格「JIS X 8341-3:2010」を徹底解説するイベントがあるそうで、お代は4,500円もするそうな。

花の都のバベルの塔、都庁のお膝元でやるからにゃ、人が集まらなきゃ笑われるだろうなぁ。

それににしても講師をする植木さん、プロモーション・ビデオで「高齢者・障害者への配慮」とする新規格「JIS X 8341-3:2010」の理念をひと言も喋らないのも凄いよなぁ。

加齢障害、一時障害で、障がい者は誰にでもなり得ることという一番煙たがられる話はされるのかな?

そうそう、先日、子供の時から視力数値が低い職場の小母ちゃんが、「なんで視力の弱い人は障害者助成の適用にならないのだろう?」話されていた。

度の高いメガネ、コンタクトの出費はかなりきついらしく、視力障害の認定は確か全盲、もしくは片目失明のみのはず。

この国の社会的障害に泣く人はもっと怒っていいと思うけど。

それにしても、このアクセシビリティのセミナーは値段的にノン・アクセシブルだよな。まぁ、セミナーすら行われない政令指定都市よりはマシだろうけど。

至るところに社会的障害はあるんだよね。

2010-09-27

悪人 Bad man

安直に考えたがる世評と裏腹に、この映画の描く世界は深い。

何故、殺したか。何故、殺されたか。だけが物語ではなく、何故、殺してしまったか、何故、殺されてしまったか。も物語る。

世の中、人間同士一対一の場面なんかあり得ない。それなのに、一対一の場面があり得るかの如く、語り、やり過ごす世評もまた「悪人」なのだろう。

強がり、見栄張り、生きる人間があたかも幸福ではなく、強がれず、見栄も張れず、生きる人間が幸福であろうとするように、この映画は苦しみもがく人間を追いかける。

妻夫木演じる犯人が逃避行するあたりにもたつきはあるものの、映画はそのテーマを観る者に考えさせる。

樹木希林、柄本明の味のある演技と深津絵里の寂しいOLが心に残る。

2010-09-26

冷えと病気 Getting cold and sickness

連日続いた残暑が嘘のように、ここ一週間は底冷えの寒さが身に染みる。

「肝炎友の会」の会報が届き、「冷えと病気について」という一文になるほどと感心し、案外知らない身体の仕組みを改めて教わった。

「半世紀前の日本人の平均体温は36.9度」と書き出しにあり、それに比べる今の日本人の平均体温が示されていないのが気になるけれども、この半世紀、日本人の生活は快適さを求め、冷蔵庫の普及、薄着の日常化などなど、身体を冷やすことが快適であるかのような環境を追い求めてきたけれども、「冷えと病気」の相関関係を考えると、身体の冷えから、肩凝り、便秘、関節痛、生理不順、頭痛、倦怠感等々が増えていく。「人間の身体の中では生命活動を維持するため、常に様々な酵素が活動している。」らしく、その酵素が活発に活動出来るのが、直腸温といわれる深部体温が約37、38度で、体温が一度下がると酵素の活動は50%に落ちるとされており、身体の新陳代謝の鈍化がメタボや様々な病態に関係するらしい。

「蛋白質の合成酵素が働かなければ、身体に必要な物質である脳伝達物質、セロトニン や各種のホルモンが作られなくなり、精神病やホルモン異常の発生が懸念されたり、遺伝子の修復酵素の働きが悪いとアルツハイマー病を誘発されかねない。」など、「身体の冷え」から来ると思われる事例が述べられている。

肝機能が役割を担っている血液の浄化も、赤血球が酵素を局所に運び、白血球が免疫を高め、血小板が損傷を修復し、血漿(けっしょう)が栄養分を局所に運び、老廃物を排せつ処理してくれる。「身体の冷え」は血液の循環も滞らせるから、代謝障害、免疫不全、損傷治癒不全などが起こりうる。

「身体の冷え」から来る諸問題は今話題の「健康増進」では何故か脚光を浴びないでいるけど、「健康増進」をアピールするならば、快適さを求める「身体の冷え」をもっと取り上げるべきなのではないか。そんな思いが募ってくる。

まずは自分の体調改善として、肩凝り、下痢、軟便などなど解消のため、身体を冷やさない配慮をいろいろ試してみようかと思うところ。

辛い思いをしたい人は「身体の冷え」の快適さを満喫すればいいだろうけど。

2010-09-23

スポーツを「読む」 Sports are read.

ここ数日で一気に秋めいてきたこの頃、暑い盛りから読み始めていた重松清の「スポーツを「読む」」を読み終えた。

タイトルの「スポーツを「読む」」にあまりスポーツ・ニュースに関心のない僕としては、食指がわかなかったのだけど、重松清、文庫化、新書化、読破を目指す物としては好き嫌いはいけないと読んでみた。

プロスポーツに関する重松清の文章は小説の中でしばしばくどい位に書かれていたりするから、そのたぐいなら、つまらないだろうと思いきや、スポーツ・ライター指南であり、専門にスポーツ記事を書き連ねるライターだけではなく、著名人が書いたスポーツにまつわる記事も考察しており、スポーツからのぞき見る著名人の世界観やその題材となったプロスポーツの世界の逸話、はたまた、スポーツから見えてくる日本のお国事情など、なかなか読み応えがあり、面白かった。

それにしても、ここに挙げられたライター陣で、寺山修司、三島由紀夫、開高健、山口瞳、大橋巨泉、阿久悠、梶原一騎などの個性の強烈なことには今さらながら、恐れ入る。

「昭和」が面白かったのは著名人の個性のしのぎ合いがあったからなのだろうと思うし、その題材となったスポーツ界も、長島、王、金田から野茂、イチローに続いた野球や力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木のプロレスなどなど花形選手を世に送り出したから題材にもなり得たのだろう。

文化の衰えが社会の衰えでもあるからこそ、重松清は今のライター志望の指南として、「スポーツを「読む」」を書いたのだろう。

スポーツする者の原動力は観客の声援であり、観客(ライター)の原動力はスポーツ選手の頑張りなのだろうから。どの世界にも云えることだけど。

2010-09-20

腹具合 Belly condition

B型肝炎を患ってから、ウイルスの増加を抑える抗ウイルス剤・バラクルードを服用するようになって、その副作用である下痢や軟便には入院当時から悩まされた。

冬の入院、春の職場からの退職、夏の猛暑という身体的にも疲れる事が続き、精神的な影響もあるかも知れないけれども、下痢や軟便は今も続いており、そのせいかどうかは判らないけど、身体が疲れやすくもなっている。

週末の仕事の最中も、ひっきりなしに便通を感じ、トイレに引きこもり状態が続いていて、用を足すたびに、ある程度の便通はしっかりある。

B型肝炎の方は、血液の数値も安定していて、便通があるのは、排せつされるべき物が身体に溜まらないのだからいいんだろうとは思うけど、下痢や軟便が続くと大腸廻りの心配も気になる。

昨晩は仕事疲れからか、身体が重く、夜寝る時も少し肌寒く感じられたので、タオルケット一枚の夏の寝具から掛け布団を出してきて、床に着いた。

身体の冷えがお腹具合にも影響するみたいだし、少し暖かめにするのがまずは改善策かなと。

日中と朝晩の気温差が大きくなるこの時期、自分の身体をいたわることで、秋を感じたりする。

2010-09-17

アラート Alert - JIS X 8341-3

この頃、HTML5とCSS3の辞典を買い、HTML5を試してみたり、今話題の電子書籍の作り方を覚えたり、またWebの事を勉強している。

先月公示されたJIS X 8341-3のウェブアクセシビリティのブログ記事のアラートなども登録して、JIS X 8341-3の評判などもチェックしているのだけれども、ここ最近は月初めに「規格の策定者が解説する JIS X 8341-3:2010」というセミナーが東京で行われたので、そのレポート記事が多く届き、その感想を読み、なるほどねとこちらも勉強になっている。

そのひとつ、Niftyのフォーラムでもお馴染みだった水無月ばけらさんのえび日記の記事が「だよね」といいたくなる記事だった。

「WCAG2.0を解説したJIS X 8341-3:2010」みたいな感じで、その試験方法や実装方法がいまいち判りにくいという感じを僕も持っていますから。

水無月ばけらさんのような現場サイドの人の視点はやはりためになる。

WHOの障がい者の概念の見直しから始まったのであろう「障がい者、高齢者への配慮」は「加齢も障がい」「怪我や妊婦など一時的な物も障がい」とすることで、誰もが障がいを抱えるとする視点は面白いと思うし、工業規格の指針となった日本提案の「ISO/IECガイド71」は障がいを問わずに、人の能力を問うていた。

過度な能力主義に向かう現代、この警告は有効かと思うけど、日本が規定している障がい認定基準で一定程度の生活を保障されている人たちも、「みんな障がい者なんだから」とその保障をなくすような愚考だけは避けて貰いたい。

公共の場を喫煙になど健康増進を過度に謳うWHOは社会保障費の抑制を狙っているのだろうから。

しかし、人間とコンピューターの共存は結局、「人は何で糧を得るのか」の問いに行き着くと思うのだけど、WHOはそこまで人の健康を考えているのだろうかと思いもするのです。

2010-09-14

この国はどうなるんですか? What wind does this country become?

と、フリーターをしている30代に聴かれた。

今や日本人の人口が10万人を越すといわれる上海に、そのうち働き口を求めて出稼ぎに行かなくちゃならなくなり、参政権を寄こせ!と云うんじゃないの。と答えておいた。

仕事がなきゃ、そうかもねとそいつは素直に答えてきた。

この国はどうなるんですか?

2010-09-13

キャタピラー Caterpillar

若松孝二って、この程度の監督だったっけ?というのが、正直の感想。

男と女。侵略と虐待。二分法で貫かれた戦時下のドラマは、「芋虫」になり、軍神様になった兵隊とその妻の家庭において、その時代を描く。

かつて、ベットと男と女があればドラマは作れると、ピンク映画(今でいうアダルト映画)を作った若松孝二らしいといえば、らしいけど、その時代の洞察力はピンク映画でゲリラ戦法を撮り続けていた頃から比べると、ずいぶん平板な物になっていた。

「芋虫」になった兵隊は戦意を消失させるから、家に帰さず、病院で始末しろ!と描いた増村保造監督の「赤い天使」の生きながらえたは兵士の恥と描かれたのに対し、ここでは軍神様であるし、殺し、人肉を喰らい、戦後、朝鮮戦争の軍需景気で社長になった奴に、「お前、仲間を殺して、喰ったろう」と責め続ける原一男監督の「ゆきゆきて神軍」に比べても随分ナイーブな物語。敗戦を迎えて、さぁ、これから軍神様が「芋虫」と蔑まれる日本の差別が始まるのかなと思いきや、あっけなくエンドロールはないっていうの。

若松孝二って、強い女が好きで、傷痍軍人のしたたかさには興味がないんだろうなぁと思いもした。

「これが戦争だ!」莫迦云え、こんなの戦争じゃないっちゅうの。元ちとせの「死んだ女の子」が浮いて浮いて聞こえてきたのそんな不満からなのだろうなぁ。

元々の企画だった江戸川乱歩の「芋虫」の映画化は観てみたい気はするけど。

2010-09-10

トイレット toilet

「へえ、ウォシュレットって、メイド・イン・ジャパンなんだぁ」と教えてくれた映画「トイレット」

調べてみると、アメリカの医療器具として開発された物を一般向けに改良したもので、医療器具と一般商品の中間に位置する「共用品」の代表格のような製品がウォシュレット。

マイノリティにこだわる映画作家、荻上直子がカナダを舞台に、性格がバラバラな三兄弟と日本人のお祖母ちゃんの交流を通し、好きなことをする素晴らしさをウィットを込めて描いている。

オタクの長男は「オタクに同情は失礼だ」と言い切り、わがまま長女は「私はフェイク(見せかけ)じゃない」とやりたいことを模索する。パニック症候群の引きこもりの次男はいつも家にいるお祖母ちゃんとの交流から少しずつ自信を取り戻していく。

「やりたいこと」を「やってもいいのか」と躊躇している人たちへ、もたいまさこの祖母ちゃんはエールを送る。

その祖母ちゃんが異国の土地で我慢していたのがトイレの便器。

荻上直子ともたいまさこの名コンビの健在ぶりを堪能しつつ、「やりたいこと」を「やってもいいのか」と躊躇し、神経衰弱になりかけている自分にエールを貰ったみたいで、「うん、頑張る」とエンドロールを眺めていた。

2010-09-09

口減らし Household economy decreasing

若い人たちとお金の話をする機会があり、話し合い、借金の苦しさを語り合ったのだけれども、お金の本当の怖さが判っているのか、ふと疑問に思い、余計なことを云ってしまった。

僕自身、お金の本当の怖さを知っているかと云えば、知らないと思うのだけど、生みの母、育ての母、共に口減らしとして、家を出て、苦労した話を聴かされているからだろうか、お金の本当の怖さだけは余計なことを云いたくなる。

「口減らし」「食い扶持減らし」兄弟の多い家庭で、食べるものもなく貧しかった時代に、奉公に出されたり、女郎さんとして売られたりした子供の事を「口減らし」「食い扶持減らし」と云ったそうである。

生みの母は敗戦間もなく、まだ年端もいかない甥子、姪子が沢山いた本家を出て、札幌に出て来て、親戚の飲み屋や幼馴染みのスナックなどで働き、本家で年老いた祖父に仕送りを続けたそうで、物のない時代に女盛りだった実母はお店で知り合ったお客と恋仲に落ちては妊娠したけれども、所帯を持つことも出来ず、子供を産んだとしても育てる糧もなく、田舎の祖父も気がかりで、子供を堕ろし、田舎の祖父に仕送りを続けたという。

そんな生活を続けていた実母も、30歳を超え、産婦人科の医師から「これ以上堕ろすと子供は授かれないぞ」といわれ、僕を産んだのだという。

養母の方は、兄弟が多く、「口減らし」「食い扶持減らし」として、札幌の親戚に預けられたそうで、多感な年頃、預けられた先の小父さんは気遣ってくれたものの、おばさんと合わなく、何度となく死のうとしたという。

実母、養母、共に「口減らし」「食い扶持減らし」をした親は心の底から詫びていたらしく、共にそんな親に対し、離ればなれで出来なかった親孝行を出来る限りしている姿は幼心ながら僕は見てきている。

誰を恨むことも出来ない、お金がない辛さは愛しい人と離ればなれで暮らさなければならない寂しさであると、実母、養母、それぞれの話を思い出し、思う。

飽食で、デフレの時代、お金の本当の怖さなど判らないのが当たり前だと思うけど、それなら、今ある幸福をもっと大事にして欲しい。そんなことをふと思ってしまう。

2010-09-08

亡き父の記録 The my poor father's record

昨夜帰宅すると、日本年金機構から母宛に封書が送られてきていた。

母に確認を取り、中身を見ると、10年前に亡くなった父の厚生年金の加入記録が同封されており、記入漏れや記載ミスがないか確認を求めるものだった。

年金記録の不備が騒がれてからかなり経ち、僕自身の年金記録も昨年送られてきたのに、亡くなった人の遺族に支払われる遺族年金の確認は今頃になって送られてくるのかと驚きもし、亡き父の記録を感慨深げに母とチェックした。

家庭的に複雑で、職を転々とした父だが、事ある毎に自分の生い立ちを話聞かせてもらっていたおかげで、それなりに父の足跡はチェックでき、戦時中、まだ20歳にもならない父が厚生年金に加入していたのは新発見だったし、戦後、兵役から帰ってきた後、すぐに働き始めていたのも判った。

そんな古い記録から辿りつつ、札幌に出てきて、新聞販売店に勤め、その店を任されるようになった時、厚生年金の加入記録が途切れており、新聞販売店を経営していた時は国民年金にも加入していないとされていた。

亡くなって何年も経つ父の職歴で、年金に加入していたかどうかなど確認する手だてはないけど、この空白期間は販売店経営者だったことは確かなのだから、まずは問い合わせてみようと思う。

社会保障に元々疎い父の世代の年金確認が後回しになったような形で届けられた昨日、古い記録は残され、新しい記録は記載ミスがあるようなそんなカルチャー・ショックを感じた亡き父の記録。

2010-09-07

幸福論 Happiness theory

田舎の叔母から電話で、海辺近くだからなのか、涼しさを求め、里に下りてきたとんぼが大量に発生し、人にぶつかるように飛び回っているらしい。

都会のヒートアイランドにいるせいか、9月になっても真夏日を記録するこの頃、とんぼのとの字も見かけない。

中島みゆきと福山雅治の「幸福論」を思い浮かべ、絶対的暑さが蔓延する今日、クーラーの効いた永田町界隈の常識はずれの蒸し暑さは、相対的幸福論しか判らないエリートちゃんたちだからなのかなとふと思う。

「プラスマイナス他人の悲しみをそっと喜んでいないか」

と中島みゆきは歌い、

「それは人類60億もの 年齢、性格、体質にそって 主観的であるべきです」

と福山雅治は歌う。

けれども、そんな絶対的な幸福論は振り返られずに、相対的幸福論が社会であるかのように語られる。

戦争や飢餓で死んでいく人はいるし、自殺をする人もいるけど、相対的に見れば、「西部戦線異状なし」

もっともっとエゴイスティックに絶対的幸福論を語った方がいいんじゃないか。相対的幸福論でお国の大将の席取りゲームに夢中になる絶対的幸福論者のように。

2010-09-06

まんが日本昔ばなし Cartoon Japanese legend

「ハイジ」や「マルコ」など繰り返し放送される定番に何故か外され、DVD化もCS放送もされない「まんが日本昔ばなし」の制作会社が少子化の影響で需要が減り、破産手続きを開始したらしい。

DVD化の要望は強くネットで散見されていて、どうやらその権利関係で出せないでいるのじゃないかという話もあり、破産手続きの成り行きによってはDVD化やCS放送されないかなと少し期待している。

物語ることを忘れた世代の乳母のような存在が、「ハイジ」や「マルコ」、そして、「まんが日本昔ばなし」を流し続けたテレビメディアだっただけに、そのリフレンが望まれる。

子守唄を知らない子供たちのためにも。

2010-09-04

夏の疲れ Tiredness of summer

猛暑続きのこの頃、昨日は台風一過で少し涼しさが感じられた。

夏の暑さから秋の涼しさに移るこの時期、夏の疲れが出やすくなるようで、僕も少し身体を気遣っている。

10年前、やはりこの時期、くしゃみから一月半動けなくなったこともあり、友人に話すと、くしゃみで流産した話もあるらしく、その衝撃度は夏の疲れの残る身体にはダメージを与えるらしい。

もともと脳性麻痺という障がいを持っているため、一番負担のかかる首筋あたりの頸椎を傷めやすいらしく、10年前のくしゃみからのトラブルもそこら辺と関わりあるように思えるし、そうだとすると寝たきりにならなかっただけラッキーだったのかなと思い、夏の疲れに気を遣うようにもなった。

この涼しさは一時のもので、また暑さがぶり返し、しばらく続くそうで、今年は特に体調管理が大切になりそうな気もする。

2010-08-31

震災忌 Day of earthquake

友だちのブログを読むと、「那覇VS札幌本日の最高気温31℃対32℃で札幌の勝ち。嬉しくないーーーーっ」とか。確かに。

数年前、今の若者は自分のことは理解して貰えないと思い、そのくせ、人のことは無関心と云われてたけど、この猛残暑の夏、週末の職場ではトイレで全裸の婆ちゃんが現れるなど、驚き、桃の木、21世紀なことが増えている。

人と人はどうすれば繋がれるのか、涼しくなれば分かり合えるのか、そんなことを思いつきで考えつつ、「最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙」を読んでいる。

「ただいま」を云えなく死んでいった20歳前後の若者たちの残された日記と60年ぶりに再会する親族たちの物語を読み進むうち、震災忌である9月1日であることに気がつく。

南洋の島々で、飢え、マラリアに冒され、炎天と爆撃の中、死んでいった人たちはどんなに苦しかったろうと思うと共に、大正俳壇の富田木歩と新井声風の関東大震災の大火の中、逃げまどうことも出来なく、死んでいった人たちは人を思い、亡くなられたことを感じ入る。

「誰かを思い、あなたは死ねますか?」

戦火、震災下亡くなられた人を思うと、逆に今の「孤独死」の寂しさが胸に刺さってくるような気がする。

大正俳壇の富田木歩と新井声風のお話を花田春兆さん著作「日本の障害者―その文化史的側面」より。

木歩最後の日、大正12年9月1日。関東地方が未曾有の大地震に襲われ、東京の下町一帯が火の海となった日も、二人は最後の最後まで行動を共にすることになる。地震発生直後、実家の安全を確認した声風は、友の身を案じて直ちに浅草から向島へ駈けた。妹たちの手で辛うじて家の近くの空き地まで運び出されたものの、そこで途方に暮れていた木歩を探し当て、兵児帯(へこおび)で背中に括り付けて、ともかく火の来ない方へと逃げ始めた。だが、行く先々に新しい火の手が上がり、浅草方面に渡る橋も焼け落ちているらしい。大の男の声風にしても疲れてくるのは当然だった。妹たちを先に行かせて暫く、声風は川の土手の上に木歩を降ろした。木歩に食い込んでいた兵児帯は容易に離れなかった。一服する間もなく、危険はそこにも迫っていた。土手に逃げた人々の荷物が火の粉を浴び、煙を上げ始めたのだ。凄まじい熱気と人々の悲鳴。いよいよの時が迫っていた。"もういい、十分だ。俺を置いて逃げろ、逃げてくれ"木歩の瞳が必死に訴えていた。万感の思いで握手を交わして、声風は川へ身をおどらせた。ようやく泳ぎ着いた声風が振り返った土手には巨大な火の帯が走り、一瞬の後死の世界と化した土手に動くものは何一つ無かった……。

2010-08-30

人夫と大工 Laborer and carpenter

8月も終わろうとしているのに、蒸し暑く、今日は戦後観測開始以来初の最も遅い真夏日になった札幌。

築数十年の借家は、週末、大家さんの配慮で屋根のペンキの塗り替えがされたけれども、この蒸し暑さからか、流し廻りに小さな蟻が出て来ていて、流し口の下水口も水漏れがするなど、あちこちでトラブル続き。

年老いた母は自律神経を患っている割にはタフで、仕事で家を空けている僕など当てにせずにそのトラブルと闘っている。

そんな中、今日はひょっこり大工をやっている従弟が顔を出し、家廻りの大工仕事をやっていってくれた。

ちょうど僕も休みで家にいたので、久々話をすると、厳しいこのご時世の話が飛び出してくる。

「身体ひとつの人夫と工具一式持った大工の賃金格差がなくなっちゃって、工具一式持ち出し分だけ、大工の方が厳しくなっている。」

そんな話を聴く時、依頼側の方の経費感覚がすっかりなくなっているのだなぁと痛感する。

パソコン作業でもパソコンは持っていて当たり前で、依頼した作業で使う経費という感覚がクライアントにないのと一緒なのだろう。

更にネット時代、安い労賃で請け負う会社を探し出し、帯広の業者が札幌まで出張旅費なしで仕事を請け負うというサバイバルな話を聴くに至ると、今のご時世のワーキングプア度が見えてくる。

けれども、当のワーキングプア世帯が自身がワーキングプアだと自覚していないケースもままあり、障がい者のA型就労事業に勤めている方で、最低賃金の生活ながら、ワーキングプアと思っていない話を聴かされ、切迫感の稀薄さに空恐ろしさを感じもしたことがある。

人は何を持ってハングリーと感じるんだろうね。

2010-08-27

障がいは人になく、差別が人にある The person doesn't have disability but the person has contempt.

北海道行政書士会の「北海道障がい者支援フェア」に行ってきて、そこでの講演を聴き、「障がいは人になく、差別が人にある」なのだろうなぁと思った。

北海道が制定した「北海道障がい者及び障がい児の権利擁護並びに障がい者及び障がい児が暮らしやすい地域づくりの推進に関する条例」という長い名前の条例の趣旨を話された講演では、地域づくり、就労支援、権利擁護にまとめられた条例の骨格が示されたけど、このような公共の集まりの講演会で難聴者向けの手話や筆記字幕がないのが、差別にあたるとした、講演者の説明が、差別とは何なのか、最も判りやすい例と思った。

知り合いの行政書士さんがその後、講演をされ、「社会モデル」と「医療モデル」という昨今よく語られ、制度改革の主軸にもなっている理論を紹介されていたけど、要は「障がいは人になく、差別が人にある」なのだろう。

段差があるから車いすで動けない、その段差が障がいである。背が低い事をコンプレックスに持っていた人が、演劇を志す人たちと知り合い、コンプレックスは様々な個性でもあることを知った。

つまりは「社会モデル」として克服出来ることと、「医療モデル」として克服出来ることなのだろう。

大型スクリーンに映し出されたカラフルなプレゼンテーションと同じものがモノクロ印刷で配れていたけれども、カラフルなものをモノクロに印刷すると文字が潰れ、読みにくくなる箇所が何カ所かある。それが色弱に配慮したカラーユニバーサルデザインという話を聴いたことがあるけど、そういう配慮はカラフルなものがあふれる現代、モノクロ主流の数十年前より配慮が劣っているのかも知れない。

「北海道障がい者支援フェア」と同じく教育文化会館で上映会が行われていた「ジョニーは戦場へ行った」は第一次世界大戦で意識ある肉塊”と化したひとりの青年の回想劇。モノクロの現実とカラフルな回想で、戦争で死ねなかった青年の苦悩を描いた映画。久々に見たかったけれども、自分の体調を考え、見なかったけれども、「障がいは人になく、差別が人にある」と云うことを中学生だった僕に教えてくれた映画。

「障がいのある人もない人も」などという優生思想が蔓延する現代、「障がいのない人」とはどんな脳天気な御仁なのか、「犬も歩けば棒に当たる」障がい価値観を忘れたくはないなぁと思った一日でした。

2010-08-24

JIS X 8341-3:2010

Yahoo ニュースでも、Google ニュースでもヒットしない最新ニュースのキーワード「JIS X 8341-3:2010」。

ウェブアクセシビリティの専門サイトをチェックしに行くと、「8月20日:JIS X 8341-3:2010が公示」というニュースがあり、遅ればせながら、JIS規格の公示を知り、さっそく、規格書を購入申し込みした。

第二次大戦後に生まれた団塊の世代が高齢化し、先進国では例外なしに少子高齢に向かいつつある今日、「高齢者・障害者等配慮設計指針―情報通信における機器,ソフトウェア及びサービス―第3部:ウェブコンテンツ」という長い御題目を掲げ、加齢障害をも視野に入れた配慮指針は、国際規格として知られる「ウェブコンテンツ・アクセシビリティ・ガイドライン (WCAG) 2.0」をその配慮基準とするという国際化の先駆けを目指して作られた割には、世界で最も高齢化の進む国のマスメディアは無関心という面白おかしい状況を露呈しているようで、面白くも思った。

JIS X 8341-3:2010に関しては、ことのは舎のJISアクセシビリティ検証の動きもあり、その成り行きが気になり、少し勉強してみようかとも思うのだけど、高齢化の加齢障害知らずの社会にどれだけ広まるかが気に掛かる。

老いて介護を他国の人に願うように、情報通信もまた配慮なき人任せにゆだねたいのだろうか?

フリーターの若者に「この国は本当に大丈夫なんですか?」と問われ、「さぁ、メディアの配慮次第じゃないの」答えてみたものの視界は確かに悪そうですなぁ。

2010-08-23

雨に唄えば Singin' in the Rain

札幌の中心部にある地下街の設備点検の日に合わせたかのような土砂降りの雨の日、地下街が通行止めということも忘れ、街に出てきて、土砂降りの雨の中、歩く羽目になってしまった。

土砂降りの雨は嫌いではなく、「雨に唄えば」のジーン・ケリーにはなれないけれども、気持ちがよい。

この気持ちが高じて、「時計じかけのオレンジ」のような乱痴気騒ぎになるほど、おろかでもない。

土砂降りの雨の中、露天風呂で、激しい雨に打たれたくて、スーパー銭湯に行く。

マイナスイオンを浴びてる心地よさからか、ゲリラ豪雨にならないかと、空を見上げる自分はそれでもやはり愚か者なのだろう。

そのうち、「マグノリア」の蛙の雨が降りしきるのかもと思ってみる。

「雨に唄えば」 | 「時計じかけのオレンジ」 | 「マグノリア」蛙の雨

2010-08-21

私が知らない私 I whom I do not know

小泉の小父様がイラクで日本人が拉致された時に云いだしてからだと思うけど、「自己責任」というのがなんか今の世の中、一般化しているみたいで、「自己責任」転じて、「人のことは判らない」「言わなきゃ判らない」と自分の人に対する無関心ぶりを肯定する風潮が当たり前になっている感じがする。

「人のことは判らない」「言わなきゃ判らない」から、孤独死も多くなってきているし、虐待だって、泣きわめいたって、うるさいとしか感じなくなっているんだろう。

たまに行く銭湯の女将さんが先日、僕に「やせた?」と聴いてきた。

食欲はあるし、お腹の出具合が気になるので、やせたという感覚はなかったけど、例年にない猛暑で、疲れが取れにくく、夏バテ気味かなとは感じていたので、女将さんにそんな話をすると、「ちゃんと食べているのなら、いいけど」と返された。

相手に対するちょっとした関心が、云われた方には自分を気付かせてくれることがある。

選択権に対する「自己責任」を一国の総理が云いだしたことで、「無関心」が当たり前の事になった世の中、やはり安易な風潮は根付くのだろう。

寄り添いあうところから「人」という漢字があり、目に針を刺し、廻りが見えなくなるところから「民」という漢字があるという。

私が知らない私を教えてくれるのは隣の人。こんな歌詞が思い浮かぶ。

「誰だって旅くらいひとりでもできるさ
でも、ひとりきり泣けても
ひとりきり笑うことはできない」
中島みゆき「With」より

2010-08-19

現況届 Report at current state

友だちと助成手続きの話をしていて、そういえば、今月が誕生月である母の年金の現況届けを出していなかったことを思い出した。

そういう役所への届出に関しては無関心の母のこと、現況届けが届いていても、気がつかずに積み上げられた郵便物の中に埋もれているかも知れない。

出先で気がついたことだから、忘れないように自分にその件をメモ書きして、メールし、帰宅後、母に聴いてみた。

届いていないという母の言葉を聴きつつ、念のため、積み上げられた郵便物を確認してみても届いていなかった。

そして、今朝、やはり気になり、「年金 現況届」でネット検索してみると、以下のお知らせページを見つけた。

おそらく年金受給の世帯にも郵便でも送られてきているんだろうけど、住民基本台帳の活用ネットワークが着実に活用されて来ているんだなぁと思った。

そういえばこの頃、やけに亡くなった人への年金支給の問題がテレビのニュースに流れており、多分、住基ネットの有効性をPRするのに一役買っているのだろうなぁと思いもした。

便利さを享受しつつ、知らない間に個人情報が集約、管理されていく。それがなんか恐ろしい気もしつつ、ネットでささやかれる「便利さは原子力発電があるから」というまことしやかな嘘と同じ質のものようにも感じたりする。

「クリーン・エネルギー」などのユニバーサル・デザインを模索せずに安易に、今あるものの正当性を語るのは、ちょっと戦時中の「日本が負けるわけがない」という風潮に似ていているような気もする。

2010-08-17

ラ・ディフェロンス La Difference

もしもきみが私を愛するなら
それはきみが黒人を愛しているということ
黒人は私を愛する 私は黒人
もしもきみが私を愛するなら
それはきみが白人を愛しているということ
白人は私を愛する 私は白人

自身、先天性の白皮症アルビノであり、マリの王家に生まれながらも、生家を追われた神の声を持つといわれる歌手、サリフ・ケイタが、同じアルビノであるがために、アフリカで惨殺され、遺体を売りさばかれている事件が多発している事に対し、赤十字と共同で、「関係各国政府は犯罪者に法の裁きを受けさせるなどといった、なすべきことを十分に行っていない」と抗議声明を出したという。

今年初頭に出された最新アルバム「ラ・ディフェロンス」を入手し、聴くと、サリフの祈りの歌が流れ始める。

日本に迷信的な民間宗教として「白蛇は神様の使い」というのがあるけれども、アフリカ東部のタンザニアでは、「アルビノの身体の一部を使って呪術の儀式を行うと金持ちになれる」との迷信があり、アルビノの手足、臓器、血液が呪術師に売られ、それらを調合してお守りを作られているのだそうで、その肉体の価格は数万ドル(数百万円)という高値で取引されることもあるという。

近年の惨殺では、生きたまま身体を解体されるされる事件もあり、カナリア諸島に逃げてきたアルビノをスペイン政府が難民として認定したというニュースも流れている。

かつて、身体障がいは神が授けた子として、大切に扱われ、神頼みの儀式の時に、神に捧げられたという話とオーバーラップする。

人と違うことが私は嬉しいとサリフ・ケイタは語り、その事を認め合うことが平和なのだと歌う。

2010-08-16

ニッポンの課長 Section chief in Japan

「社長は誰でもなれるけど、課長は下積みしなければなれるものではない。」と語られるニッポンの課長さんたち。

今世紀初頭に書かれたこの本では、バブル後遺症からの会社建て直しに奔走する課長さん、不景気風もなんのそののヒットメーカーの課長さん、動物園から児童虐待、ロボット開発まで社会貢献に全力尽くす課長さん達、おらが町、おらが村を活性させる課長さんなどなど、ホワイトカラーとブルーカラーの狭間に立ちつつ、小さいながらもおらが部署を守り抜こうとする30代から50代の課長さん達の生き様をレポルタージュして読ませてくれる。

そこから見えてくるのはお先が見えない今の日本でどうすれば活路を見いだせるかの試行錯誤。

そこで時々出てくるのが、当たり前とされてきた東京志向への抵抗。

東京から上海にビジネス拠点が移りつつある時、沖縄を中心の地図を思い描けば、沖縄はアジアの中心にある。普天間ばかりのアジアの中心論争の昨今、沖縄はビジネス業界でもアジアの中心になろうと試みる。

東京と上海のバックアップとしての沖縄、地震が比較的少ない沖縄、物価単価が安く、若者の就職難で人件費を抑えられる時事事情などなど、売り文句を探し回るIT課長さんはここに登場する課長さん達の代表格みたいな存在。

板挟みの中間管理職は上に余計な口を挟ませない、下にリーダーシップを発揮する、か弱いながらも一国の主のような立場でもある。

上を3割、下を7割見ている人が出世する人でしょうと語られる課長さん像は、太鼓持ちで、お山の大将でもダメという微妙な位置。

だからこそ、すごろくは前に進めるのであるのだろうなぁとビジネス力学を読む私。

2010-08-13

告白 Confession

娘を殺された女教師の命の授業から物語は始まる。

「嫌われ松子の一生」の中島哲也監督作品初体験ながら、そのシニカルな映像テンポはうまいなと思った。

湊かなえの原作は読んでいないけど、子供が思春期になり、大人になることに気付かぬまま、自分の価値だけで子供と接する親と、与えられるだけ与えられたものを使いこなし事に必死になり、疲れ切り、大人の要望に応えようとする中学生たちの心のゆがみに、女教師の娘は生け贄になった。そんな話をそれぞれの告白によって、物語は綴られていく。

自虐的な話を更に自虐に綴る事で、今の社会の虚しさが見えてくるようなそんな映画。

開き直った松たか子のクールさは決まっていたけど、自閉気味に騒ぐ中学生たちはやはり薄気味悪さを感じてしまうし、身勝手な親たちは心から死んでくれと思いたくなりもする。

ネットでこの映画の感想評に、「教師として無責任」という記事を目にしたけれども、役割分担の責任逃れが今の社会じゃないのかと思ってしまう。

まぁ、これも映画と同じで、「なーんてね」でエンドロールになるのだけれど。

2010-08-12

命日参り Visiting of anniversary of one's death

今日は実母の命日であり、養父の月命日に当たる日。

用事を早く切り上げ、納骨してあるお寺さんに行き、お盆の供養を済ませてきた。

今年は特に、年明けの入院もあり、本人は切実感はなくとも、主治医から話を聴くと命拾いをしたのだなぁと云う思いが強く、見守ってくれたであろう実母、養父の命日参りは果たしたかった。

全身がガンにむしばまれても、頑なに息子である僕を言語治療中の東京から呼び戻す事を拒んだ実母と、身体の弱り具合を感じつつ、無性に寂しがった養父のどちらの死も看取ることは出来なかったけど、自分も12日に死ぬような気はしていて、入院中も年明けの12日を越せれば、助かると自分に願かけていたりした。

「生きながらえました」の御礼と共に、「一緒に家に帰るよ」のお盆のお迎えに、二人の月命日があると思っている。

台風一過の夜の街、二人は今の街並みをどんな思いで見ているのだろうか?

2010-08-10

違います? Do you differ?

「あれ?今日は。…違います?」

スーパー銭湯から出てくる時、目があったおばちゃんにナンパされました。(笑)

週末の仕事場でもアルバイトの学生が僕によく似た客がいると教えてくれるけど、まだ本人を見たことがない。

もしかするとこのおばちゃん、その僕似の人と間違えたのかも。

会ってみたいな、僕似の人と。

2010-08-09

アルバム Album

職場で、心霊写真の話が盛り上がり、僕がこの職場に入った頃、30年前に写した職場の写真にそれらしきものが写っているという話をしたことから、その写真を見せてくれと、アルバイトの学生たちにせがまれ、久々に昔のアルバムを引っ張り出した。

久しぶりに見る写真の数々に懐かしい想い出を思い出しながら、見ていくと、亡くなった友だちの顔がいくつも現れる。

心霊写真じゃないけど、年月経ると想い出も亡くなった人ばかりになるんだなとほくそ笑み、話題の写真の張り付いたページを見つけ出す。

「みんなが笑っているけど、本当はどう何だか判らない。けれども、本当のことは判らないけど、これが私の生きた証。」

テレビドラマの「岸辺のアルバム」でこのようなことが語られた事が記憶にあるけど、私にしか判らない歴史がアルバムにはあるように思う。

みんな笑っているけど、こいつはいついつ亡くなり、こいつとは付き合いなくなった。

そんな想い出でも棄てることなく、貼り残してあるアルバムはやはり自分の生きた証なのだからなのだろう。

あの日に帰りたいとは思わないけど、明日はもう少しマシになりたいと思ったりする。

写真を撮らなくなって十数年、アルバムの中のブランクを知るのも自分だけだからいいじゃないか。

2010-08-07

樹高千丈 落葉帰根 Even The Leaves of The Tallest Tree Fall and Return to Its Root

用事が済んで、少し早く帰れた日、街をぶらつこうかと思い、歩いていると、懐かしい人影を見かけることがこの頃多くある。

何となく疎遠になって、何年も逢わなくなった人と偶然の再会は、互いの近況報告から始まり、懐かしがりつつ、それぞれの今の時間に追われるように、別れを惜しむ。

中島みゆきの曲である「樹高千丈 落葉帰根」は傷つけあうような関係になりそうな人と別れ別れになって、大きな樹の正反対の枝につく葉っぱになり、落ち葉になった時、同じように大樹の根に帰っていくものなんだと歌った歌である。

懐かしい人と巡り会う度、この「樹高千丈 落葉帰根」が思い浮かび、根の強さを信じたくなる。

「私は独りが嫌いです。
それより戦さが嫌いです」

激しい通り雨もやんだので、久々、従姉の店に顔を出す。

「樹高千丈 落葉帰根」月遅れの北の国の七夕の夜に聴きたくなる。